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て、サラ川は『川柳』でないなどと言えるのか」と言う。もっともな話である。
川柳を始めて二、三年経つと、熱心な人ほど周囲の川柳に疑問をもつ。主張の異なった柳誌を購読するからだろう。
例えば「NHK学園川柳講座」では、定型を基礎として教えているので、中八・下六は抜かない。講師もこれには気を配って指導しているので、上六・上七の字余りの句に対しても厳しく指摘されている方がいる。私もその一人だが、それらの講師が教科書ともいえる『川柳春秋』に受講生に指摘している字余り破調の句を、自分の作品として発表しているので、受講生から「先生方は初心者には定型を守れと教えているのに、ご自分ではそれを破っている。偉くなれば何をしても良いのでしょうか。私は忠実に定型を厳守するのに苦労している。先生にも模範になる定型句を作って欲しい」という声を聴いたが、現代川柳界の指導者が定型を軽視しているからだろう。
このような初心者の声、サラ川の人たちの川柳界への苦言を無視しては、その人たちからそっぽを向かれ、川柳界はいずれ理屈屋の集団になってしまう。いま川柳愛好者が求めているのは、右でも左でもない、あくまでも趣味として楽しむための指導者なのだ。それを無視していると彼らは導けない。

 

似たもの川柳は出る

戸井田慶太
『平成柳多留』第二集のエッセイで斎藤大雄氏が「川柳は人間である」の定義では、川柳作家でない他の人からシッペ返しの言葉がくる予感がした。そこで「川柳は人間の機微をうたう文学である」と、「川柳は人間である」に「機微」をつけただけで同席の音楽家を納得させることができて、「そう機微ね、なるほど」と川柳の姿を認めてくれたようであった1」と書いておられる。わたしも初心者教室では、よく「川柳は人間存在のものである」を使う。ましてや最近の句風が人間の存在しないものが多々出てきて、何かきれいごとをあちらからこちらから集めてきて人間存在のない句がでてきているのには考えさせられる。
盗作だ偽作だというが、
定年のひとり芝居の幕が開く
そして夜ひとり芝居の幕があく
上五のみの違いで作られた句である。これはある柳誌上で見つけた句である。盗作でも偽作でもない。前者は丸亀

 

 

 

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